昭和会計史としての「企業会計原則」

日本の会計制度近代化の立役者『企業会計原則』をはじめ財務会計について考察します。

日本型会計制度の歴史(戦前編)Ⅰ:商工省「財務諸表準則」未定稿

戦前編第1回 商工省「財務諸表準則」未定稿

 

 商工省「財務諸表準則」未定稿

 

 初回は,「日本型」会計制度の出発点である財務管理委員会による準則の未定稿を取り上げます。なお,引用の一部については,表記を改めています。

    商工省「財務諸表準則」は,産業合理化を推進する商工政策の一環として,財務管理委員会によって作成されたものでしたが,形式規定としての「財務諸表準則」(1934年)の他,実体規定としての「財産評価準則」(1936年),そして原価計算基準としての「製造原価計算準則」(1937年)が公表されました。さらに,監査基準として「会計監査準則草案」(1939年)まで準備されており,会計制度近代化のための「フルセット」ともいうべき体系を備えていました。

 第一次大戦後の欧米各国は,戦後の生産設備の過剰による恐慌から抜け出すために経済合理化運動に努めました。日本でも,昭和の金融恐慌に始まった不況から抜け出せないまま,その後の世界的大不況に晒されました。こうした状況の打開策として,金解禁政策とタイアップして,産業合理化運動が開始されました。1929年(昭和4年),政府は,商工審議会に企業合理化方策を諮問し,企業合同の促進,カルテルの奨励,独占事業の統制等の実施という答申を得ました。そして,1930年(昭和5年)6月に、現在の経済産業省の前身である商工省に臨時産業合理局が新設され,その指導の下に産業合理化が図られました。

 臨時産業合理局の常設委員会として,生産管理委員会,販売管理委員会,消費経済委員会,国産品愛用委員会,統制委員会,そして財務管理委員会が設けられました。臨時産業合理局が創設された当時,第一部事務官を兼任したのは,商工省特許局事務官 岸信介でした。後の総理大臣です。

  商工省臨時産業合理局の財務管理委員会の審議項目は以下のものでした(商工省臨時産業合理局財務管理委員会1930,161頁)。

1 事業会社の財産目録,貸借対照表損益計算書及損益金処分書の内容を統一,明確又

 は精細にすること。

2 各種業別の標準的簿記を定むること。

3 中小商工業の簡便なる標準簿記を定むること。

4 適正なる損益金算出の基準方式を定むること。

5 財産評価に関する一般的原則を定むること。

6 固定資産の減価償却の合理的方法を定むること。

7 原価計画に関する一般的原則を定むること。

8 各種事業別に標準的原価計算方法を設定すること。

9 事業会社の財務及予算に関する研究。

10  帳簿,伝票,書類を標準化すること。

 

 「標準貸借対照表」は,上記の審議事項のうち「1 事業会社の財産目録,貸借対照表損益計算書及損益金処分書の内容を統一,明確又は精細にすること」に応えるべく太田哲三(東京商科大学,現在の一橋大学)を主査として作成されました。そして,1930年(昭和5年)に,現在も発行されている雑誌『會計』(第27巻第6号)上で未定稿として公表されました。「未定稿」というのは,今日の「公開草案」に相当します。財務管理委員会の未定稿はすべて雑誌『會計』に掲載することにより公表されました。

 貸借対照表の形式について,当時は,借方を左,貸方を右とするという点についてさえ統一がなく,また,資産を左,負債・資本を右とするという点についても左右逆にするケースさえあったといいます。

 「標準貸借対照表」に続いて1931年(昭和6年)に,「標準財産目録」が,太田哲三を主査として作成され,雑誌『會計』(第28巻第1号)上で公表されました。「財務諸表準則」の未定稿及び確定稿の特徴の一つは,財産目録が財務諸表の体系に加えられている点です。これは,当時,貸借対照表が,財産目録に基づいて作成されるべきものとする「財産目録主義」をとっていたためでした(黒澤1990,242頁)。

 次に,「固定資産減価償却準則」が財務管理委員会の審議事項のうち「6 固定資産の減価償却の合理的方法を定むること」に応えるべく太田哲三を主査として作成され,雑誌『會計』(第28巻第6号)上で未定稿として公表されました。

 続けて、1931年には「標準損益計算書」が太田哲三を主査として作成され,雑誌『會計』(第29巻第2号)上で公表されました。「標準損益計算書」については,当時の日本の大会社その他ほとんどすべての会社が損益状況を明細に報告することを回避する秘密主義をとっていたので,イギリスの伝統的な様式が採用されました(黒澤1990,258頁)。財務管理委員会メンバーの太田哲三の回想では以下のようなエピソードが紹介されています。

「臨時委員の1人であった関西の某実業家から、此の準則は強制されるのかどうかと

 の質問を受けた。勿論強制力はない、単に啓蒙的なものだと答えたのである。する

 と、それではこの案には賛成するが、若し強制でもするようになれば絶対に反対であ

 る。損益計算書に総売上高を掲記するなどはもっての外である。商売人が自分の売上

 高を発表するなんて、そんな馬鹿なことはない。自分の店では総売上高を店員にさえ

 知らせない。これを知らせることは店員の操縦に支障を来すものだと云う。これには

 本委員達も驚いた。が当時はそんな思想もあったのである。」(太田1968,118-119頁)

 

 さらに,「資産評価準則」が,1932年(昭和7年)に,財務管理委員会の審議事項のうち「5 財産評価に関する一般的原則を定むること」に応えるべく吉田良三(東京商科大学)を主査として作成され,雑誌『會計』(第31巻第1号)上で未定稿として公表されました。

 「原価計算基本準則」は,上記の審議事項のうち「8 各種事業別に標準的原価計算方法を設定すること」に応えるべく吉田良三を主査として作られ,1933年(昭和8年)に雑誌『會計』(第33巻第2号)上で未定稿として公表されました。

 関係各方面からの意見聴取の後,「標準貸借対照表」,「標準財産目録」および「標準損益計算書」の内容を一括し,確定稿として,1934年(昭和9年)に「財務諸表準則」が公表されましたが、これについては,次回取り上げることにします。

 

文献

太田哲三1968『近代会計側面誌-会計学の六十年-』中央経済社

久保田秀樹『「日本型」会計規制の変遷』中央経済社,2008年。

黒澤清1990『日本会計制度発達史』財経詳報社。

商工省臨時産業合理局財務管理委員会1930「財務管理委員会の審議項目」『産業合理

 化』第1輯。