日本型会計制度の歴史(「企業会計原則」)第2回幻の「企業会計基準法」構想
今回は,幻の「企業会計基準法」構想と「企業会計制度対策調査会」を取り上げます。なお,引用の一部については,表記を改めています。
①幻の「企業会計基準法」構想
「工業会社及ビ商事会社ノ財務諸表作成ニ関スル指示書」の改訂がまだ捗らないでいる間に,経済科学局(ESS)経済顧問の高橋正雄から東京大学教授の上野道輔に,1947年制定の「統計法」及び「統計委員会」と同じように「企業会計基準法」及び「会計基準委員会」をつくってみてはどうかという提案がなされました(新井ほか1978,17頁)。
この「高橋構想」と「指示書」の改訂問題が,ESSの中で,「奇妙なはち合わせ」をすることになりました(番場ほか1974,6頁)。結論からいうと,これが1948年(昭和23年)7月6日に成立する「調査会」につながっていきました。しかし,「調査会」の設置については,紆余曲折があり,関係者にとって「生みの苦しみの長い時間」が続くことになりました(黒澤1979/80〈4〉98頁)。以下ではその経緯を辿ってみましょう。
1947年末か,1948年はじめごろ,上野道輔の委嘱で黒澤は,「企業会計基準法」を制定するための原案をESSに持って行きましたが,「日本政府が承認したら,認めてもよい」とういうことになり,「企業会計基準法」の試案は大蔵省へ持ち込まれました。しかし,大蔵省は引き受けませんでした(新井ほか1978,17頁)。結局,最終的には経済安定本部(以下では安本と略称します)が引き受けることになるのですが,その事情について黒澤は後に次のように語っています。
「それで,私と中西寅雄先生ならびに,上野先生の三人で佐多忠隆局長に会いまして,
『この会計委員会を経済安定本部で引き受けてくれないか』と相談した。彼は,『内
田常雄が財政金融局長をやっている,あれに話してみてはどうか』と内田氏に紹介し
た。内田さんは,二つ返事で引受けた。」(新井ほか1978,17頁)
このように,結局,「企業会計基準法」制定も会計基準委員会の設置も最終的には安本が引き受けることになりました(番場ほか1974,7頁)。
安本では「企業会計基準法」という法律を新設するのは無理だが,行政機関と同じような権限を持った「調査会」をまず作ろうという新しい提案がなされました(新井ほか1978,17-18頁)。その結果,ESSでこの件ついて協議が行われ,太田哲三を中心とした「指示書」の改訂作業,すなわち上述の「財務表標準化委員会」を「調査会」に合流させようという結論となりました(新井ほか1978,18頁)。
ある対談で,黒澤は,安本が引き受けたとしても,当時の状況としては,最終的にはGHQ/SCAPの承認を要する。そこでESSを通じて,GHQ/SCAPの民間情報教育局(Civil Information and Education Section;CIE)のモスにあっせんを頼むことになったとしています(新井ほか1978,18頁)。そこでは,安本が引受けた後にモスに会うという順序になっているのですが,この4年前の対談で黒澤は,「もっとも安本に持って行く直前のことですが,G.H.Q.の経済科学局の支持が得られなかったとき,同じG.H.Q.の出店にあたる文部省内の実業教育セクションのモス博士から電話がありました。」(番場ほか1974,8頁)と発言していています。
いずれにせよ,モスには「当時の日本の文部省に教育改革に関して指令する権能をマックアーサーから与えられていた」(番場ほか1974,8頁)ことが重要でした。「マックアーサー」とは,もちろん連合国最高司令官マッカーサー(D. MacArthur)元帥です。
なお,このモスという人物については,上掲の発言中では「局長」,また別の日本側の資料では,「職業教育課長」となっていますが(黒澤1979/80〈3〉99頁),国立国会図書館の憲政資料室に所蔵されているGHQ/SCAPの民間情報教育局(CIE)資料(CIE 1948)によれば, Louis Q. Mossという人物です。その肩書は,CIEの教育課(Education Division) のAdult Educationの顧問(Adviser)となっています。GHQ/SCAPでは,専門知識が必ずしも十分とはいえない人物に大きな権限が与えられていたといわれますが,モスもそうした1人であったようです。
②企業会計制度対策調査会
1948年5月14日に「企業会計制度対策調査会」(以下では「調査会」と略称します)の準備大会としての「会計基準および教育会議」(Conference on Accounting Standards and Education)が開催されました。そこでは,当時の内閣総理大臣 芦田均宛の「建議書」が提出されました。黒澤清は,この建議書の日本語版が手許にないとして上掲の連載には英語版のみが写真で紹介されていますが(黒澤1979/80〈1〉,100頁),芦田均に提出された日本語版が国立公文書館に所蔵されています(総理庁1948)。
会議の決議に基づいて上野道輔は芦田首相に直に会見して了承を受け,閣議決定の運びとなりました(新井ほか1978,18頁)。同年6月29日に,閣議は「調査会」を経済安定本部(以下では、「安本」と略称します)内に設置することを決定しました。
「調査会」の当初の構想は,「企業会計基準法」を制定し,同調査会を発展的に解消して,新たに会計基準委員会を内閣直属の恒久的な行政機関として設置し,会計原則の確立と維持とに関する基本的事項の審議を行い,各官庁間における企業会計制度に関する諸業務の連絡調整を図ることにありました(日本公認会計士協会25年史編纂委員会1975,321頁)。
会計基準委員会の権限はかなり大きなもので,商法,税法等の法令における会計または計算に関する規定が改廃される場合には,会計基準法における「会計五原則」に準拠し,かつ会計基準委員会の意見を尊重しなければならないということになっていました(黒澤1979/80〈8〉,147頁)。その「会計五原則」とは以下のようなものでした。
(企業会計基準法案)
1 企業会計は企業の財政状態及び経営成績に関して真実な報告を提供するものでなけれ
ばならない。
2 企業会計は正規の会計原則に従って処理されなければならない。
3 企業会計はすべての取引につき正規の簿記の原則に従って正確な会計帳簿を作成しな
ければならない。
4 企業会計は財務諸表により利害関係人に対して必要な会計事実を明瞭に表示し企業の
財務の状況に関する判断を誤らせないようにしなければならない。
5 企業会計はその処理の原則及び手続を毎期継続して適用しみだりにこれを変更しては
ならない。
(黒澤1979/80〈7〉,114頁)
後に,企業会計基準法が不成立になったとき,この会計五原則のうち「2」を除く4つが,企業会計の一般原則として,『企業会計原則』のなかに,取り入れられました(黒澤1979/80〈9〉,147頁)。
「調査会」規程の第6条に基づいて,「調査会」部会規程が定められ,当部会規程により,次のような問題を所管する四つの部会が設置されました(黒澤1979/80〈3〉,100-101頁)。
委員長 上野道輔
総務部会 部会長 内田常雄(経済安定本部金融局長)
企業会計の基準及び教育に関する恒久的組織を設立するための調査及び 準備並びに各部会に属しない事項の調査
第1部会 部会長 黒澤清
財務諸表の改善統一に関する調査
第2部会 部会長 上野道輔
企業会計の教育に関する調査
第3部会 部会長 岩田巌(東京商科大学教授)
企業会計の監査基準に関する調査
黒澤によれば,「調査会」は,経済安定本部の権限を背景に,法令上,正規の行政機関ではなかったものの単なる諮問機関ではなく,行政の総合調整に関与する権限をもった委員会でした(黒澤1979/80〈3〉, 100-101頁)。
1948年7月16日に「調査会」の第1回総会が開催され,「調査会」議事規則及び部会規程が決定され,委員及び幹事が任命されました(経済安定本部1949)。「企業会計基準法」の草案は,後に「調査会」の事務局でまとめられ,討議の上,安本の幹部会に提出されましたが,結局、法制化には至りませんでした。
黒澤の連載(黒澤1979/80)では「企業会計基準法」が成立しなかった経緯は語られていません。しかし,1948年11月25日,12月2日及び12月9日の「企業会計原則設定に関する企業会計制度対策調査会速記録」が雑誌『會計』に掲載されています(企業会計制度対策調査会1949)。黒澤は後に以下のように述べています。
「そもそもあの速記録は,その実,文字どおりの速記録ではなくて,安本の葛原秀治補
佐その他数名が,現場で各委員の意見を筆記して,上野会長がいちおう検閲した上で
雑誌『会計』にその一部だけ公表したものである。審議の過程では,いろいろの解釈
や意見も発表されるが,『企業会計原則』が公表されるまでの,7ヵ月の間に,当初
の誤りは修正されている。」(黒澤1979/80〈13〉76頁)
すなわち,公表されたものとは別の筆記された原本が存在していたのです。その筆記原本の一部は,黒澤の連載に写真版で紹介されています(黒澤1979/80〈8〉147-149頁)。また,同速記録で公表されていない個所が黒澤の別の論稿に一部引用され,そこには,経済安定本部財政金融局企業課長 清島省三の以下のような発言が記されています。
「最近,安本の幹部会(大臣,次官,副長官,局長,関係課長出席)があったが,会計基
準法が制定されて,会計基準委員会が設置されることは安本としてはよいと思うが,
この委員会は,新しい行政官庁をつくることになるので,行政整理が行われている際
とて,財政上問題がある。そこで安本としては,この案をとおすためには,GHQの指
令がほしい。幹部会ではこの問題はペンディングにしてある。審議会で行くか,行政
機関としての会計基準委員会で行くかは,こんごの残された問題である。
証券取引委員会を内閣にもっていって,会計基準委員会と合併して大きなものにす
るということも考えられる。」(黒澤1978,10-11頁)
そのあと,黒澤は,「要するに,会計基準法および会計基準委員会は,政府部内に行政整理問題その他の摩擦のために不成立に終わった。」と述べています。
1950年5月に、「調査会」は、「経済安定本部設置法の一部を改正する法律」の公布によって法制化され、発展的に解消し、名称も「企業会計基準審議会」に改められました。そして、1952年(昭和27年)4月講和条約が発効し、同年7月行政改革に伴い、証券取引委員会が廃止されました。経済安定本部が経済審議庁に改組された折に「企業会計基準審議会」は、大蔵省の所管となり,名称も「企業会計審議会」と改められました。所掌事項はほぼ継承され、経済安定本部の財政金融局のほとんど全員が大蔵省に移ったということです(番場ほか1974,7頁)。「企業会計審議会」は、金融庁の諮問機関として現在も存在します。
文献/資料
新井清光ほか1978「〈座談会〉企業会計制度の基盤」『企業会計』第30巻第12号。
企業会計制度対策調査会1949「企業会計原則設定に関する企業会計制度対策調査会速記
録(1)~(3)」『會計』第56巻第3,5,7号。
久保田秀樹『「日本型」会計規制の変遷』中央経済社,2008年。
黒澤清1978「企業会計制度の発展と企業会計原則の役割」『企業会計』第30巻第12号。
---1979/80「資料:日本の会計制度〈1〉~〈16〉」『企業会計』第31巻第1号~
第32巻第4号。
経済安定本部1949「企業会計制度対策調査会業務概況報告」(成蹊大学付属図書館『黒
澤文庫目録Ⅱ―第一次史料-』(2000年)整理番号Ⅱ-12 9)。
総理庁1948「建議書」,国立公文書館[請求番号]本館-4E,036-00,平14内閣-00042-
100,リール番号001400,マイクロ・コマ番号0193。
日本公認会計士協会25年史編さん委員会1975『公認会計士制度二十五年史』同文舘出
版。
番場嘉一郎ほか1974「〈座談会〉企業会計四半世紀の歩み」『企業会計』第26巻
第1号。